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代表的な探検

第二次安家川流域学術調査

岩手県下閉伊郡岩泉町安家の調査にあたって

立命館大学教授 隊長・菊池立身

はじめの言葉として

本学の探検部はいまだに歴史が浅く、これからの活動が期待されるものである。屋久島その他各地にパーティーを送って、かなりの成果を上げてはいるが、二年がかりで三回以上の調査隊を送り自然、社会、人文の各分野に汎り総合的な調査活動をおこなったのは、今度がはじめてである。いまその調査報告を公表するにあたり、ひとしお感慨深いものがある。私は三回同地に至り、第3回のごときは一ヶ月隊員と同行し、いろいろな思い出をもった。京阪、盛岡、さらに岩泉町、安家の各所で一方ならぬ御後援、御援助を頂いた。その御厚情を思い出しては、今改めて感謝の意を述べるものであるが、いくら述べても述べつくせないように思われる。
安家は、かつては、日本の秘境とまでいわれていた。しかしその風土の特異性、生活の様々は多方面の関心を引きおこし、いろいろな調査がおこなわれた。我々は、それに何をつけ加えることができたであろうか。鍾乳洞の調査は、学生の若さと隊員の数と長い調査期間にものをいわせて、部分的断片的であったものを、総合的にまとめることができた。はじめの頃盛岡でさえ、安家の鍾乳洞というと、安家洞だけのことであり、岩泉のそれは竜泉洞のことであった。今では岩泉町を中心として大鍾乳洞群が存在し、安家がその1中心をなしていることは、広く知られるに至った。安家洞群の名は今や天下に高い。
人文、社会科学においても、安家はあることだけについて興味を引くところであった。たとえば、封建遺制として今に残ると見られる名子制である。しかし学生たちは、安家に極めて多数の問題のあることを見出した。安家の年中行事は、米作的色彩に乏しく、山林農民的特色の強いことや、おしら神の宝庫といってよく、しかもそれが、昔の発生時の意識を残して家の守り神としての地位を保ち、祈祷迷信に堕落してしまわないことはその1例である。そのような「本に書かれない、生活の歴史」のあることを、そしてそれが消失しつつある姿を学生たちは見ることができた。町誌や表むきの記録のかげに何があるかも知った。
安家はしかし日本の縮図でもあった。町村合併のころの安家に起った諸事件は、ひとつの類型として、日本の地方行政の縮図でもあった。安家における米作や畜産や林産の調査も、やはり日本における農村山村のひとつの類型がここにあることを教えてくれた。この調査の学生たちの調査のしかたは、やや独自であったと思う。
私たちは、大牟羅氏の著書や、岩手教組の「安家」を読み、ただ形式的なアンケートを求めるという形式の調査をやめ安家の色々な層の人々と親しくなり、打ちとけてもらい、そこから生の言葉を引き出して、それを基にしてまとめていくやり方を試みた。この方法でノートはたまったが、整理が大変であり、その多くはまだ充分まとめる段階に至らず、従ってこの報文中につくされていないのである。今後、まだまだなければならない点が残っていることを自覚している。
安家は秘境でなく、日本のどこにでもあるひとつの山村で、その問題はやはり日本の縮図であるようである。それならわれわれは日本をもっと勉強しなければ、安家はわからないのである。たとえば営林署と国有林のことが充分理解されていなければ、安家の山林と村民の生活の関係が充分にわからないであろう。そのような広い理解の中で安家の問題を考えていくにも、学生の学力はまだ不充分である。離村や出稼ぎの安家における姿は、どういう特色と問題点をもっているかということも、彼らの学力では不充分なテーマである。
そこで、現在の段階では、ある客観的な事実とそれから学生なりの力で考えられることを、まとまったところで書いて見るということになったのである。私は自然科学の専攻なので、鍾乳洞関係のことで一応彼らと共に調べた。人文、社会科学については、彼等の独力の勉強だけである。
我々の調査は昭和38年の春に第一回の調査隊が入り、特に上村坂本を中心にして予察的調査をした。そこで、生活にとけこみ、話をきくという方法を考えた。別れるとき子供等が涙を流し、手をとりあうところまで親しむことができた。その成果をもとにし、同年夏に自然班が鍾乳洞調査を人文班が上村(坂本中心)元村、下村(川口中心)に根拠をすえ一ヵ月の調査をおこなった。
同年秋、牛市調査隊が出た。昭和39年は夏に鍾乳洞調査隊が一ヵ月元村を中心にし調査を進め、岩泉町内で70余洞の実測調査をして桃の木洞と氷渡洞というA級大洞穴と坪沢穴大縦穴はじめ多くの異色ある洞穴を、従来の龍泉洞、安家洞につけ加えた。今次の報告書は、その内の38年度に行われた調査の第1次報告書である。なお39年夏には、立命館大学ユーラシア調査隊の予察旅行中の星野隊長の一行が安家を訪れ独自の調査をされ、我々のデ-タを利用された。この報告は同隊から別に公表されるであろう。
御後援を得た、毎日新聞社、岩泉町当局、協賛を得たNHK盛岡放送局はじめ、岩手県教委、さらに岩泉町や安家現地の諸氏特に工藤市助町長はじめ町の諸有志の諸賢、安家の玉沢儀助氏、玉沢安太郎氏、小根口林太氏、平吹太郎氏、大崎栄氏。安家中学、安家小学、大平校、川口校、坂本校はじめ諸学校の諸先生、農協、さわや等の諸氏。岩手大学の川本教授はじめ諸先生東京科学博物館の上野博士、京都大学の吉井教授。岩手県の動物研究家遠藤公男氏。立命館大学の学生部はじめ学生の指導を得た諸先生、星野教授はじめユーラシア調査団の諸先生。岩手パブリカ、岩手トヨタ、湯浅電池はじめ御援助を受けた各位に厚く御礼の言葉を述べ、あいさつの言葉とする。

安家調査と我々の活動

チーフリーダー 藤谷紘司

序にかえて

探検は現代を基点にして、古き残されたものへの発掘と、未来につながる未知への挑戦である。ともに、新しきものを創造せんがための、パイオニアたらんとする気魄である。学問が再生産されるから、古き残されたものへの発掘のためには、学問的な探究が要求され、未来につながる未知への挑戦は、より新しい天地の探究が要求される。そこにはたえず学術的な要素が流れている。現在の探検が学術探検といわれるゆえんである。
戦後世情の安定とともに、再び探検活動が活発化し、数多くの学術調査隊が、海外のフィールド目指して飛立った。そこにはまだ多くの未知なる分野がまちかまえていた。それ故探検と名のつく行動は、海外フィールドが主たる舞台であった。至る所に交通路が開け、人間のひしめく国内で、もはや探検と名のつく行動を成立せしめる舞台がないと考えられている。本当にそうであろうか?国内での調査行は海外の桧舞台へ出るための副次的な存在理由しかもっていないのだろうか?我々は、新しきものを創造せんがためにも、もっと国内を理解する必要があると考えた。

安家調査のいきさつ

初めて北上山地が調査フィールドとして提起されたのは、昭和37年の夏である。そこには、「チベット」のことばが、後進性を示すバロメーターとして我々の脳裏をかすめ、無電灯地区の存在が、残されたものへの発掘意欲をかきたてたのであった。更に、未来につながる未知への挑戦には地底があった。前者は、未開発山村の調査が、後者は洞窟調査がクローズアップされた。ともにその要旨とした所は、北部北上山地のパイオニアたらんとする気骨であった。
安家調査の動機は、およそ以上のようなものである。デスクプランのまま3ヶ月間ねむり続けた北上案が、再度部員の注目を集めたのは、昭和37年暮の事である。ここにようやくPlan-upを終え、第1次遠征隊が、昭和38年3月上旬、出発の運びとなったのである。

全安家調査行のあらまし

昭和38年春、第1回北上山地学術調査のタイトルのもとに隊員6名を派遣、主に本調査に備えるための予察的調査行であった。最奥部落、坂本にて展開、遠征後、部の総力を結集して本調査の準備に着手。
同年夏、第2次安家川流域学術調査と銘打って本調査実施、人文、自然の総合調査隊とする。菊池部長の参加を初め、隊員34名の大量を派遣する。
同年秋、第3次補充調査隊(主に牛市調査)に6名、第4次補充調査隊に2名を派遣、それぞれ最終的な補充調査行を実施し、調査の完璧を図った。
本調査における調査員の配分については、北上研究会(安家川流域学術調査隊の母体)の中で大きく分類して、自然、人文のパートにわけ、研究を進めた。自然隊は、洞窟を研究テーマの中心に置き、又人文隊は、第1次の調査項目と資料をもとに、修正を加えつつ、共に研究を進めた。特に人文隊の各調査項目の研究には、各隊員の学部、個性希望を考慮しながら担当者を決め、上級回生のチーフを中心に、調査項目担当者をそれぞれの支隊ごとに配置して調査にあたった。尚、自然隊はまとまったパーティー行動をとったため、若干、趣を異にするが、研究方法は人文隊とほぼ同じ要領で進めた。

安家調査と我々の姿勢

安家調査行は、我々に多くの教訓と、方向性、さらに自信を与えたであろう。部創設以来、数ある遠征の中で、「調査」を意識しつつも、そこには甘さがあり主体的な弱さがあった。
この事実は、部の歴史の浅さにも結びつく。第1回北上山地遠征に際して我々は、まずこの点を反省した。探検は、もはや地理的未知を埋める事をもって、主たる任務とする時代はすぎさった。そこにはたえず、学問と密着した学術探究がある。でなければ、単に人の行きがたい所、観光ずれのしていない所へ行って、自己のロマンチズムを満たすワンダラー達となんら変わらない。この点に関して、第1次の計画書の中でこうのべている「・・・ある時は自然科学分野を、又ある時は自然科学分野を、又ある時は人文科学分野を対象に実施してきたが、学問的な深さ、Expedition Systemの不徹底など、遺憾ながら我々は、反省の余地を残している・・・」学生の探検行動の中で、学術性がどれだけ比重を占め、又その結果がどのような役割を果すのか、いいかえればどれだけ学問的に自立して行けるかが大きな問題である。この問題に対し、本調査における計画書の中で、次のような発想をもって位置づけをした。「・・・本来、学生を主体とする学術探検は、我々が常日頃学んでいる学問を駆使することによって、生きた学問、肌で感ずる学問を学びとり、その行動の結果が失われるものの残った記録として役に立ち、新しいものへの創造の記録とすることに意義がある。・・・青年の特権である未知なるものへの好奇心と、エネルギッシュな行動力もって、その道の研究者に刺激とヒントを与え、しかも我々自身の立場から、地域住民、ひいては国家社会に対して一定のプランを提起したいと考える・・・」この位置づけは今後も変化しないであろう。我々の主張は、学術性をうんぬんするよりも、いかにして学問的素養を活かすかにかかっているといえよう。探検は物珍しいジャーナリスティックな行動ではない。真の姿は、もっと地道なものである。次に我々が数次に亘る継続調査とした意図はすくなくとも専門家でない我々の立場をカバーせんとするものであった。調査ポイントの把握に乏しい我々にとって、より日数を費やして調査行を実施する必要があった。感覚的体験記に終わらせないためにも、又新しい天地を求めて飛びまわるワンダーとならないためにも是非必要な事であろう。
安家調査行は、部の創設期における集大成ともいうべきものであり、過去の労苦の結晶である。本調査に於ける大量34名の運営は、過去のパーティー行動の積み重ねと、前3回に亘る先発隊員のルート工作、第1次遠征隊の的確な現地判断とが功を奏し、円滑なるパーティー行動をとることができた。パーティー行動に対する自信は、今後の部活動の中に生きてくるであろう。又菊池部長の参加、及び、調査顧問団のバックアップは、我々の調査活動をより円滑ならしめ、さらに調査成果に一層の輝きをもたらした事実を忘れてはなるまい。今後我々は、主体的立場を保持しつつ、教授陣の指導、援助を仰ぎ、一つの調査行をよりみのり豊かなものにして行かなくてはならないだろう。

我々の行動と対外的影響

第1次遠征に於いて、我々がとった行動が、現地の人々に反感を抱かせたことは、事実である。現地出身の某女子から、我々に対して1通の投書が舞込んだ。その投書は、我々の行動を反省させるに充分な根拠をもっていた。少なくとも、都会的センスでもって現地へ乗り込んだ反映に他ならない。この投書を契機に我々の行動姿勢をまず正し、本調査に於いて、現地の人々とのヒューマンな関係を樹立すべく努力したのである。探検(学術調査)は、自然に抗して生きる人間そのものを理解する事にある。それ故、調査者としての鋭い観察眼と現地の人々と同じ立場に立脚して、種々のカベをみつめる態度がなければならない。探検学と云うものが、仮にあるとするならば、それは人間学そのものであろう。人間疎外の著しい現代パーソナルな結びつきを理解することは我々自身にとって貴重な体験であり、姿勢でもある。趣意書の中で我々は次のように結んでいる。「・・・我々は短い限られた期間ではあるが、当地の人々と共に生活し、心と心の融和を養うことは、我々自身の人間形成の上にも意義があろうし、又社会に与える影響も、すこぶる大きいものがあると信ずる次第である。」この発想基盤に立脚しつつ、カメレオン的同化能力を発揮し、現地の人々とヒエめしを食べ、ともにイロリ端に腰をおろし、酒をくみかわしながら語らいを続けたのである。又巡回映画会は、より一層親密感を増すことに意義があった。小学生を始め、青年会、婦人会との会合も同様である。村の盆踊りに隊員も加わり、共に笑いあったことも、今ではなつかしい思い出として残っている。さらに、数次に亙る調査行の中で、より一層ヒューマンな関係を増進する事ができたのも、継続調査の大きな利点のひとつであろう。この事実は学者調査や、殿様調査にない学生調査隊の大きな利点でもある。ともあれ安家の人々と我々との心のつながりは、この記録と共に末長く続くこと願ってやまない。

最後に、我々の調査に対して御理解ある好意を寄せて戴きました安家の方々を始め、御後援、御援助賜りました各位に対して深く感謝致します。

立命館大学探検部 探査No.2 特集あっか 1964年12月20日発行

※編集者註

安家石灰洞穴群を広域的に調査し初めて「群」として捉え、氷渡洞、桃の木洞等の奥部を発見、初踏破した。安家石灰洞穴群の本格的探検はまさに立命館大学探検部から始まった。また人文科学の分野ではリーダー藤谷紘司氏が述べているように「学問的自立を果たし」その結果、報告書は時代を超えて今日にまで当時の安家の姿を生き生きと克明に伝えている。
このような優れた具体的成果が挙げられた背景には、部内で議論を重ね大学探検部が探検活動に臨む姿勢を明確に確立し安家の地域に溶け込んでいたからではないか。それは40年の歳月を経てなお安家の人々に「立命館大学が来て探検した」と言わしめるほどの好印象を残すことになった。その意味でも探検を志す者に指針を与える文章であり探査No.2「特集あっか」の序文をここに収録させていただきました。

ある青年教師の言葉

大脇武昭

私の家に80才になる祖母がいる。孫の私は静かに音楽を聞き、読書する性格でないとみえ、ブラリと家を空けては祖母に心配をかけている。私が旅に出かけてからは帰るまでの毎朝三宝荒神様に旅先での平安を願ってくれているらしい。筆不精で旅先から一回も連絡をせずに、突然帰宅すると、そんな祖母だけに、しわだらけの顔を喜色満面にして「無事に帰った、無事に帰った」とニコニコする。
さてその私の旅といってもたいていは洞穴調査のためか登山であった。洞穴調査まで旅に含まれるものか私の感覚ではすっきりしない。しかし旅が「故郷を離れて一時家を留守にする」という幅ひろい行為であれば、私のそれも旅のうちに含まれるであろう。
私が洞穴にもぐり始めたのは今から七、八年前のことである。大学探検部の夏季遠征で北上山地の洞穴調査に参加したのが最初であった。当時鍾乳洞として有名だったのは、高知県の龍河洞か山口県の秋芳洞ぐらいだった。だが、この北上山地にも大規模な鍾乳洞が地下に眠っていた。
そしてたまたま、一ヶ月にわたるこの洞穴調査で、処女洞を発見したことが、私を洞穴に魅きつける原因となった。学校の休暇はそのほとんどを洞穴調査ですごし、平和なキャンパスにいる時でさえ、洞穴のことに頭を思いめぐらした。
処女洞を探検し、幾日もかけて測図した洞内地図を前にして、ここの石柱は大きくて立派だから「自由の塔」この支洞は床面が龍の落とし子の背中のようだから「龍の背支洞」と名前をつけよう等々、全員でワイワイ騒ぐ時は最高の楽しみだった。しかし、こんな事はめったにない。くる日もくる日も地元の人に洞穴の位置を聞き、汗を流して捜し、結局は小さな汚れた洞穴を測図する作業の方が 多かった。そのような日々が続くと洞穴に対して新鮮味が失われていく。たとえば、照明具一つを例にとっても、最初は基本を守って三種類持ち込み、不意の故障に備えたものが、やがて二種類になり、最後はポンとたたけば灯のともるようなヘッドランプ一つでも平気になる。また行動中運悪く岩角に当て、ライトが消える事があっても、ポトン、ポトンと落ちる水滴の音楽を聞きながら手さぐりで修理する。それでも修理出来ぬ場合には、暗黒とは全く何も見えぬ状態であると変に感心しながら助けを待つ心の余裕ができる。
馴れは、洞穴そのものにも向けられ興味が減少する。つらら石があり、石筍があり、リムストーンがある、類似した景観を眺め、最初の頃は感嘆のため息をついたものだが、そんなことも無くなり、驚きの声さえでない。この単調極まりぬ洞穴に今もって若干の興味をだいているのは、スポーツ的に処女洞探検を目指した洞穴もぐりから、科学的な面での調査の為の穴もぐりへと私の視点が移ったためである。幸いなことに洞穴は自然科学の宝庫だった。やがて私は地質学、生物学、古生物学、考古学等をかじりはじめ、資料を収集し、遠征帰りの大型キスリングは、獣骨や、人骨で一杯になった。
夜になって、持ち返った骨を机上にひろげ、バラバラになっているのを元に復元する。一つ一つの骨の表情を読みとり同一種を捜し、セメダインで接着するのは重労働だった。しかし数千年前の人骨と石器を眺め、過去の人々の生活を想像することは、あたかも生命の歴史を自分の手で構築しているのだという喜びがあった。私にはロマンチックな仕事に思えた。
特別に興味深かったのはコウモリの生態についてであつた。ある日、洞穴から赤ん坊のコウモリを捕えてきて、天井に金網を張った箱で飼育を始めた。成長してゆく様を観察するのだ。日に三回程、温めたミルクをスポイトで飲ます。その飲む仕草は実に可愛いかった。短い舌をペロペロだし味見をし、それからコックンコックンと飲みはじめる。腹のあたりが黄色に変色し満腹すると背のびの格好で細い足をのびのびと伸ばす。翼をひろげて大きなアクビをし、頭をコチョコチョと足でかく。最後に緑色の糞をプチュンと放ちスヤスヤと眠りにはいる。悪魔のように嫌われているこの小動物のあまりに可愛い仕草に、私は新しいものを発見した時のごとく驚きを感じた。離乳食には何を与えたらよいのか、日が経つにつれそんな事も考えるようになった。しかし赤ん坊コウモリを人に預け、たて穴から一昼夜ぶりに出洞してコウモリの死を聞いた。一日に三回のミルクでは腹がすくだろうと六回程与えた結果だった。悲しかった。けど怒れなかった。それからはコウモリの生態を調べに洞穴に行くのが大きな楽しみになった。寝袋を持って洞内にとまりこみ、交尾の仕方や哺乳の仕方を観察するのだ。他に疑問はいくらでも出現した。一年中温度変化のない洞内でコウモリはどうして春を感知し冬眠から目をさますのか?出洞や帰洞の時間は湿度や温度に関係あるのか?餌を取るハンテングエリアは?どれも深い謎につつまれていた。
夜の山中にコウモリの追跡を展開した。50メートル間隔に連絡員を置きハンテングルートを追跡するのだ。飛んできたコウモリを見つけて『ホーイホーイ』と合図する声が暗い山中にこだまする。
このような洞穴調査で私の学生生活は暮れた。そしてそれが私の旅の全てであった。骨を復元しコウモリを追跡した行為はなんであったのか。とも角も、それは若い私が全力をそそぎ込んだものだった。人生の大きな問題に関係なくやれた行為だった。しかしそれだけに洞穴もぐりから得た経験は大きかった気がする。第一に先ず発見の喜びを知った。自分の足で確かめる必要を知った。そして動くことが体に沈潜してしまった。そしてそれは一つの後遺症とも云えた。事情が許すなら又行動しようと仕事が手につかなくなるような日常の生活に密着した後遺症だった。卒業後も暇を作ってはあちこちに出掛ける破目に落入った。しかし、インドネシアへ四ヶ月の旅を試み、その帰路バンコックに立寄って、若い旅行者の群れを見た時、私は旅に対する深い反省をせまられた。
バンコックのヒッピー宿に集まる若者、ある者は麻薬におぼれ、ある者は乞食同然になっていた。まるで若い旅行者の墓場にいる気がした。旅の持つ楽しさ、明るさ、美しさ、そんなものに無縁の堕落した群集だった。
旅とは本来素晴らしき行為ではなかったのか。仕事に疲れ、人生に苦悩した時何かの示唆を与えてくれる・・・そんなものではなかったのか。
旅におぼれる事の危険を感じた。自分がその土地に対して何ら責任のない、そこで何をしてもよい、逆に何もしなくてもよい、すくなくとも自分の行為に責任を感じなくてすむ旅はやりたくないと思った。
その時、コウモリ調査の折に何回も訪れた山間の小学校の青年教師の言葉が頭に浮かんだ。『君達はこの村に来て実情を調査した。その結果、村は貧しく教育水準も低いことが理解出来たと思う。それなら何故この村に残って改革をしてくれないのか。いかに立派な報告書を書いてくれてもそれはただの紙にすぎない』
私の旅も、洞穴もぐりに始まり、異国の旅へひろがりをみせた。行動バカだった事はもう何も云うまい。ただある場所を通り過ぎてゆく旅行者の一人でしかなかった事・・・その認識を大切にしたい。青年教師の言うごとく、もうそろそろ、飛び込んで何かの仕事をしなければならないのであろう。何のために-たぶん、自分の行動してきたこと、言ったこと、その事を自分自身で責任をとるために。

日本観光文化研究所・あるく みる きく・1970・9-No.43 特集:地底の旅 私の旅15

※おおわき たけあき

1943年、愛知県生。立命館大学探検部OB。洞穴調査に熱中する。延べ入洞回数三百回。一時は骨に取りつかれ、岩手県の洞穴で縄文人骨を五体発掘。現在は毒矢の文化に興味を持っている。

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