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代表的な探検

地底の嵐 青海千里洞

日本最深・青海千里洞 関西大学探検部

関西大学探検部OB 水島淳

青海千里洞の概要

新潟県西頚城郡青海町、マイコミ平。黒姫山(1221m)の南尾根と町界尾根に囲まれたブナの原生林をもつ谷間。この地帯は、岩手県岩泉町や山口県秋芳町と並んで日本有数の石灰層が走り、無数の鍾乳洞が地下に眠っている。
マイコミ平にほど近いブッシュの中に青海千里洞は盛んに白いガスを吐き出している。ちょうど、人間が呼吸をするように、定期的に30秒間ほど息をつく。その息は強い時には焚き火をバタつかせる。眼鏡を拭き終わるころには、逆に枯葉を深い洞内に吸い込んでいく。
青海千里洞は竪穴で、地下100mの第 I ホールには大きな雪渓を抱き、150mには落差70mの大滝(孤独の滝)、その滝つぼは通称第 III ホール(柩鳳の間)と呼ばれ、最深部アタックのための前進基地である。ここから横穴が続き、さらに竪穴となって地下405mの最深部のプールへと至る。

青海千里洞の見取図

第4次探検 1次アタック隊

1967年8月21日~23日、6名のアタック隊員は地下250mの第 III ホールに設置されたアタックキャンプから、それに続く200mの横穴を経て、前年の第3次探検の最深部(290m)に中継点を設置、梯子を下ろして最深部に挑んだ。
しかし、気温が摂氏4度、水温3度、湿度100%という悪条件の下では一度濡れたシュラフは乾くことなく、寒気は肌を突いた。テントを持ちこんでいない彼等は疲労に襲われ、さらに悪いことには、誤って梯子10mを竪穴の底に落としてしまった。彼等は地下370mから引返した。

第4次探検 2次アタック隊

8月25日。2次アタック隊として私達5名は入洞した。1次隊の経験から、洞内の寒さに対処するため2倍量のガソリンとテントが持ち込まれた。また梯子不足を補うために、70mの孤独の滝に使用している梯子の下部25mを切離し、最深部アタックに転用することにした。これは洞窟活動ではできるだけ避けなければならないことである。洞内で事故のあったとき、速やかに行動がとれるよう、時にはザイル無しでも脱出できるよう、行動地点から洞口までは梯子を常備しなければならない。第 III ホールにつくと、たった今降下してきた梯子が切り落とされ、私達は上部のサポートなしには地上に戻れなくなった。
朝から続いた作業は夕方6時ごろに終わった。私達はすぐにでもアタックを開始する予定でいたが、記録用カメラをベースキャンプに忘れてきたことに気づき、迂闊さに苦笑しながら、翌朝への延期を決めた。しかし、その迂闊さが私たちを死の危険から救うことになろうとは。もし、私達が、アタックを開始し、第 III ホールから直径1m位の狭い横穴(ルート0)を抜けて奥へ進んでいたら、ルート0は水で埋まり、身を切るような水に濡れながら食糧もシュラフもないまま、洞内に閉じこめられることになっただろう。暗い静かな洞窟。私達が描く洞窟のイメージであり、青海千里洞も例外ではなかった。アタック延期を幸いとして、テントにもぐりこみ、洞窟の匂いを胸一杯に吸い込む。例年になく滝水も少なくピチャ、ピチャという音も快くこだまする。中継隊員の洞外に引きあげていく声が遠くに響く。半身をシュラフに入れ上体を起こして、1次隊の残したピーナッツをコンロで焼きながら食べる。ひどく湿っていて、そのままではとても口に入らない。大声を出したりしてこだまを呼ぶ。最深部へのアタックを控えて心は躍っていた。
3、40分も経過したろうか。突然、引き上げたはずの中継隊員の叫び声。「○○、××!!」最初はよく聞きとれなかったが、どうやら「トランシーバー!」と言っているようだ。ただちに、トランシーバーをつかむ。「こちら第 III ホール。どうぞ」、「こちら第 II ホール。洞外からの連絡。外部は大雨、注意されたし。どうぞ」「第 III ホール。了解。気をつけて帰って下さい。どうぞ」、「第 II ホール了解、また明日来ます」。

地底の嵐

私達は、この日新潟地方を襲った豪雨の直撃を地下250mの世界で受けたのである。連絡を受けると同時に、70mの大滝は落石を伴って増水しはじめ、時とともにその水量を増していった。胸を駆け抜ける不安は歌声を殺し、先刻までは安らぎすら与えてくれた暗闇は不安に拍車をかけ、アタックキャンプは恐怖に支配された。「ガーン・・・」、落石が大声でわめき、体を凍らせて洞内に響く。
さらに増水が予想されたので、早目に夕食をとり、その間に私はひとりで、第 III ホールの支洞を昨年の記憶を辿りながら探ってみた。脱出口があるかもしれない。結果は絶望的だった。今のところ、ルート0は順調に水を飲み込んでくれている。しかし、直径1mの横穴に石がゴロッと詰まれば・・・・・・一巻の終わり。第 III ホールの水位は上昇し私たちは水死をまぬがれない。滝の音や、落石の音を聞いていると気が滅入るばかり。シュラフにもぐりこみ、目を閉じ、耳を塞ぐ。滝の響きが体を通り抜けていく。
翌26日、午前4時。ドォーンという大音響が洞内を揺るがせた。増水だ。テントから顔を出したとたん、水しぶきが激しく顔に叩きつける。私達はこの時、地底の世界に吹き荒れる嵐を見た。滝水の落下は風を巻きおこし、水しぶきは豪雨と化し、テントをバタバタと鳴らす。落石は相継いで地に激突し、ホールは反響音を集めてゴォーゴォーと吼えたてた。地鳴りと振動は落盤の不安を呼び、増水と落石は水路の埋没を招く。こんな状態では洞外からのサポートも期待できない。
私達は、ある程度まではこの事態を予測し、万全の装備を整えたつもりだった。しかし現実にその状態に置かれてみると、何と無力なことだろうか。日誌をビニール袋に入れ、エアマットに結びつけた。もしもの時、誰かが見つけてくれるだろう。もう為すすべはなかった。

脱出

1コマの映像が私の胸に焼きついている。緑のテント。半身を起こした5つのシュラフ。表情を失った青白い顔が、ほのかなローソクの灯に浮ぶ。・・・・・記憶が空白になっている。
午前9時。滝音が遠く小さくなっていった。水が引いていく。雨が止んだのだ。思わずあがる喚声が滝音に勝ってこだまする。「第 III ホール。応答せよ。応答せよ」、中継隊の電波がコールする。
8月26日、この日1日の晴天が私たちを生の世界に連れもどしてくれた。水量の減るのを待って、中継隊の手で梯子がつぎたされ、脱出開始。濃緑の葉が目にしみた。無事を祝う仲間たちの声の中で、むさぼるように飲んだ熱いミルクの味。その夜からまた雨が降りだした。

4年間にわたって、私達の情熱を冷たく拒みつづけてきた青海千里洞も遂に第5次隊の前に、日本最深、地底405mの世界を現わした。
1968年8月8日のことである。

日本観光文化研究所発行 あるく みる きく 1970.9 No.43 特集地底の旅

※編集者註

-日本最大のパイオニアワーク「青海千里洞の探検」-
関西大学探検部は岐阜熊石洞(深さ150m)の縦穴探検終了後、新たなフィールドを求めて全国の石灰岩地域に手紙を出し未踏の洞穴探しを始め、これはと思う地域に偵察隊を派遣した。その中に、青海大穴、小穴(千里洞)があった。
この発見に至る過程もパイオニア的ならこれから展開される探検も「フィールドが人を育てる」を具現するような凄まじさがあった。洞内気温2.5度の寒さ対策が至上命題の千里洞ではすべての行動にスピードと正確さが要求され、そのための訓練を徹底的に行った。測量はクリノコンパス測量を採用し岩手県氷渡洞まで行き「早く正確に」を徹底訓練。具体的には夜、宿舎での製図作業中にデータの間違いが発見されると、すぐさま洞内へ戻り再測量させ「1回で正確に」を身に付けた。千里洞では「もう1回」がないのである。最大の難関、水温2.5度の水を浴びながら昇降する、70mの孤独の滝を克服するために「雨の夜大学の校舎で梯子訓練」「沢の滝に梯子をかけて昇降訓練」ついに朝日新聞社のカメラマンが撮影した写真の中に4本の手足が梯子から離れている写真があったという伝説まで生まれた。
また地理的に地上の自然をも克服するためのあらゆる知識技術が要求され、探検部の総力を結集し挑んだ。そうでなければ最深部到達は困難な探検であった。

日本で一番深い縦穴の探検が縦穴探検における日本最大のパイオニアワークであることを承知し、隣の白蓮洞の方が青海千里洞を抜いて、より深くなったことを知ってはいるのですが、しかしそれでも尚、「関大の青海千里洞探検は日本最大のパイオニアワーク」であると思うのです。
関大の青海千里洞探検はアプローチと洞内探検の難易度を比較してもすべての面で他の国内のドライケイブを圧倒しています。白蓮洞は確かに深い縦穴なのです。しかし青海千里洞探検があって初めて他のマイコミ平の洞穴群が発見された、いわば付録みたいなものの一つとしか第3者的には受け取れないのです。
マイコミ平には今なら簡単に車で近くまで行くことができます。足を伸ばせば黒姫山です。ここが日本かと思うような、すさまじいばかりの大ドリーネ群が広がっています。セメント会社の所有地とのことで、なんの指定もされず丸腰のまま放置されています。
一度現地を見ていただければ下界から、猛烈なブッシュを切り開き、大量の装備食料すべてをボッカし青海千里洞に挑んだ関西大学探検部の鬼気迫る執念を少しは感じていただけるかもしれません。

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